盗聴

 最初に試したのは聴診器だった。本物によく似た玩具をドラッグストアで買ってきて、まず自分の心臓に当ててみた。期待していたほどには聞こえない。しかし息子を実験台にしてみると、体内の様々な音が実によく聞こえる。理由は不明だが、自分より他人に使うほうが適しているようだ。しかし飼っているカメの甲羅に押しつけても、心拍音は捉えられなかった。表面が硬いとだめなのか。実際、聴診器を部屋の壁に当ててみても、静寂が返ってくるばかりだった。
 次に思いついたのは集音器である。これも本物と玩具の間くらいのを買った。パラボラのようなお皿の真ん中にマイクが取りつけてあり、集めた音をイヤホンで聞く。全体としては、昔のSF映画によくある光線銃のような形をしていた。その銃把の部分を握って音源を狙う。スタイルとしては怪しいばかりか、けっこう恥ずかしい。
 とても人前では使えないので、三階のベランダから鳥の群れている木立の方へ向けてみた。若干、囀りが大きくなるような気はした。しかし何十メートルも先の会話が、聞き取れるとは思えない。巨大な聴診器として使うイメージもあったのだが、壁に押しつけようとしても、パラボラよりマイクの先端が突きだしているため密着させられず、全く意味はなかった。
 最後にやむなくコンクリートマイクに手を出した。圧電素子を使ったピックアップで、壁を伝ってくる音を拾う装置だ。ネットで最も安いやつを探したが、玩具ではないだけに値が張った。しかし効果は抜群で、隣室(隣家ではない、念のため)で話す人の声まで聞き取れる。玄関のスチールドア越しだと、うるさいくらいに外の音が耳に飛びこんできた。これにICレコーダを接続して盗聴器は完成――。勇躍、深海潜水調査船「しんかい6500」に乗りこんだ。
 そう、私は水深一五〇〇メートルの海底で噴出する熱水(温泉)の音を録りたくて、試行錯誤を重ねていたのである。潜水船には通常、高価な深海用の水中マイクは備えられていない。そして高い水圧から乗組員を守る分厚い金属の壁が、外の音を遮っている。したがって何百回もの潜航経験があるパイロットでさえ、深海の音を直接、聞いたことはない。そこで一度だけの潜航機会を与えられた私は、誰もしたことがない経験をしてやろうと思ったのである。
 結果、狙い通りに私は熱水の噴出音を「盗聴」し、個人的には大きかった時間的・金銭的投資を満足感で回収することができた。今は使いでのない聴診器と、恥ずかしい集音器の処分に迷っている。(「小説現代」2007年10月号)

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