フランス南西部に「先史時代の世界の中心地」と呼ばれている小村がある。「先史時代の主都」と訳される場合もある。ドルドーニュ県のレゼジー・ド・タヤック村だ。おそらく多くの日本人には、馴染みのない名前だろう。しかし村の中には、世界的に有名な地名がある――「クロマニョン」だ。
二〇〇八年の四月にレゼジーを訪れた時、私は〇二年の『ストーンエイジCOP~顔を盗まれた少年』、〇四年の『ストーンエイジKIDS~2035年の山賊』という作品に続いて、三部作の完結編ともいうべき『ストーンエイジCITY~アダム再誕』を書き始めていた。そのメインタイトルの意味、すなわち「石器時代の都」からも何となくわかっていただけるかと思うが、レゼジーあるいはその周辺を舞台の一部にするため、現地への取材旅行に出かけたのである。
先史時代にはどう思われていたか知らないが、今のレゼジーが便利な場所にあるとは、とても言えない。まず成田からパリまで一三時間半近く飛び、国内線に乗り換えてボルドーまで一時間余り飛んだ。空港からボルドー駅までバスに四五分揺られ、ペリグー駅まで一時間半ほど特急の窓を眺め、ローカル線に乗り換えて三〇分間、不安に引きつった顔で腰かけていると、ようやくレゼジー駅に着いた。フランスは初めてだったこともあって、非常に疲れた。喩えれば日本語のわからないフランス人が、いきなり遠野とか熊野へ一人で行くようなものではないだろうか。
時差が八時間なので、ホテルにチェックインして一息ついた時点でも、まだ陽はあった。もったいないので荷解きもせずに外へ飛びだし、村の中心部へと向かった。ボルドーは薄曇りで肌寒かったが、レゼジーの空は穏やかに晴れていて暖かだった。村の中を流れるヴェゼール川のほとりには、白いヒナギクと大輪のタンポポが無数に咲き乱れていた。
数分も歩かないうちに「ホテル・クロマニョン」という看板が見えてきた。壁面に太い蔓性の木が這っている、というよりは食いこんでいるような古い建物だった。このホテルの裏手にある岩山から、一八六八年にホモ・サピエンスの最初の化石「クロマニョン人」が出土したのである。その現場には形ばかりに炉の跡が再現されていたものの、あとは記念のプレートと説明板があるだけだった。
「先史時代の主都」というのは、おそらく自称なのだろうが、私に異論はない。約三万五〇〇〇年前から我々の祖先はこの地に住み始め、周辺の岩陰や洞窟に多くの石器や彫刻、そして壁画を残していった。そのうちで最も有名なのがラスコー洞窟であり、他にも壁画のある洞窟がいくつか分布するヴェゼール川流域の渓谷一帯は、ユネスコの世界遺産に登録されている。
そして我々の兄弟種であるネアンデルタール人も、クロマニョン人よりずっと以前(約二五万年前)からそこにいた。有名なムスティエ遺跡をはじめ、多くの場所に生活と文化の痕跡を残している。両者は三万五〇〇〇年前を境にして入れ替わったが、おそらく共存していた時期もあっただろうとされている。二つの人類種の間に何があったのか、あるいは何もなかったのか、まだはっきりとした答えは出ていない。たぶん、これからも完全に解明されることはないだろう。
いずれにしてもレゼジーとその周辺では、ホモ・サピエンスとネアンデルタールが、それぞれの文化を開花させ、場合によっては一時期にせよお互いに影響を与え合っていた。「先史時代の主都」と呼ばれる資格は充分にあるだろう。そういう土地へ私は足を運び、何かを肌で感じたかった。太古の息吹を、かすかな残香でもいいから嗅ぎ取りたかった。そして人類の進化をテーマにした、野心的な、というよりはむしろ無謀な物語に取り組みたかったのである。
そんな私の思いに、レゼジーは少しだけ応えてくれた。
村から自転車で一五分ほど走ったところにある、コンバレル洞窟を見学しに行った時のことだ。そこではラスコーのようにレプリカではなく本物の壁画を見られるのだが、いつでもオープンしているわけではない。決められた時間に、見学の予約を入れておかなければならなかった。私はその時間よりかなり早く着いて、案内人が来るのを待っていた。
洞窟の入口は鉄柵で塞がれ、その隣には岩壁に半ばめりこんでいるような小屋があった。おそらく案内所だろうと思って窓から中を覗いたが、誰もいない。扉にも鍵がかかっていた。高さ七~八メートルの岩壁は広々とした草原を丸く囲い、苔むした落葉広葉樹の深い森を背負っていた。私の他に人影は全くなかった。圧倒的に静かだった。
ところが、ふいに聞こえてきたのである。遠慮のない咳払いであった。何度も何度も……そのうち「カーッ、ペッ」と痰を吐くような下品な音さえ響いてきた。すぐ近くなのだが、いくら見まわしても姿はない。やはり案内所に人がいるのだろうか。それにしても、やけにはっきりと聞こえる――と不思議がっているうちに、あたりは再び静寂に包まれた。
やがて三々五々、人々が集まってきた。そして最後に案内人がやってきた。彼は私を含む見学者たちから予約券を集めると、おもむろに案内所へ行ってドアの鍵を開けた。やはり中には誰もいなかったのである。
すると咳払いしていたのは一体、何者だったのか? 未だにわからないままだ。しかし私はそれが、岩壁や大地に記憶された古代人たちからの、ささやかな挨拶だったと信じることにしている。そして彼らは、私を正しい場所へと導いてくれた。
レゼジーは素敵な村だったが、物語の舞台として思い描いていたような場所はなかった。それは半ば予想していたので、私はレゼジーから東へ車で四時間ほどの所にある、別の村を訪ねた。その村もまた、周辺に洞窟の多いロット川を見下ろす位置にあった。
古いものでは一三世紀にまで遡る石造建築物が、歩いて一周しても三〇~四〇分の範囲内に密集していた。その村全体が高さ一〇〇メートルくらいの崖の上に、へばりついていた。鉄道は通っていないので、アクセスには車しかない。西洋のお伽噺に出てきそうな小さな小さな村で、これに比べたらレゼジーでさえ都会だった。なんでも「フランスで最も美しい村」の一つに指定されているらしい。
観光案内所でもらった地図を見たとたん、「あ、ここだ」と思える場所が目にとびこんできた。村を抱きかかえているような森へと分け入る道が、一本だけあったのである。石垣と小屋のわずかな隙間から始まっているその道を上っていくと、村を一望できる山腹へと導かれ、その先にほぼ私の頭にあった通りの場所が見えてきた。まるで奇跡のように思えたが、古代人たちの計らいだったのだろう。
しかも途中には、古びたかわいらしいチャペルとゴルゴタの丘を模したらしいモニュメントが、プレゼントのように置かれていた。これは全く予想していなかったが、ありがたく物語の中で使わせてもらうことにした。
この村の名前は、あえて明かさないことにしておこう。しかし、ここに書いた情報だけでも、ネットで簡単に突き止められるはずだ。村の風景は『ストーンエイジCITY』に詳しく描写してある(名前だけはフィクションだ)。それを読んで興味が湧いたら、ぜひ一度、訪ねてみてほしい。後悔はしないはずだ。
小説を書くために海外取材をしたのは、初めての経験だった。限られた予算と時間の中で、せいいっぱいの情報をかき集め、物語の中に詰めこんだ。きっとまた「詰めこみすぎだよ」との批判も出てくるだろうが、正直かまうものかと思う。少なくとも知る価値のない情報は入れていない。読者諸氏には、物語を楽しむのはもとより、多少の知的な興奮をも味わっていただければ幸いである。(「小説宝石」2010年11月号)