岩手県の水沢で『辺境生物探訪記』の取材をした帰りに、初めて遠野を訪れた。ちょうど雪が降り始めたところだった。ついでに足を伸ばしてみたくなっただけで、そこを舞台に小説を書こうとは、まだ考えていなかった。
レンタカーや貸し自転車は借りられず、服装も靴も雪の中を歩くのには向いていない。市内のごく一部とバスで行ける範囲を、半日ほど回っただけで時間切れになった。それでも、一つだけ衝撃的なものに出会った。
何のことはない、市立博物館の映像展示である。柳田国男の『遠野物語』にも収録されている「郭公と時鳥」の話を、紙芝居か絵本のような演出で見せていた。
両親がおらず、ひもじい暮らしをしていた姉妹が、山を探しまわって、何とか見つけた芋を分け合った。優しい姉は外側の硬い部分を食べ、妹には内側の柔らかい部分を与えた。それがあまりにおいしかったので、妹は姉のほうがよりおいしいところを食べたのだと悔しがった。そんなことはないと否定する姉を、「ならば腹を裂いて確かめる」とばかりに妹は包丁で刺し殺してしまう……。
この後、姉は郭公に、妹は時鳥になって飛んでいくのだが、話の中身としては、ほぼ以上に尽きる。「小鳥前生譚」と呼ばれるお伽噺の一種だ。しかし過去にはこれに近いことが起きたとしても、おかしくはなさそうな土地柄である。
その土地の博物館が、大型スクリーンで毎日、くり返し流していた映像は、きれいではあるものの恐ろしかった。妹が姉の腹に包丁を突き刺す場面も、ちゃんと出てくる。少し感受性の強い子供が見たら、トラウマになってしまうのではなかろうか。
しかし、よく考えてみれば、これは囲炉裏端などで大人が子供にずっと語り聞かせてきた昔話の一つなのである。今さら驚くこともないはずなのだが、私は少なからずショックを受けた。
それがきっかけで『遠野物語』に改めてのめりこみ、やがて新しい小説の構想が、妖怪のごとく私に取り憑いたのである。
坂口安吾は「文学のふるさと」と題するエッセイの冒頭で、「赤頭巾」の話を取り上げている。この童話の原作は、優しくて純粋で可憐な赤頭巾が、ただ狼にムシャムシャ食べられてしまうところで終わるらしい。そこで安吾は「私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然[しか]し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか」と述べている。
「郭公と時鳥」にも、そんな「ふるさと」が垣間見える。遠野には、同様な印象を残す昔話が多い。私は図らずもふるさとの宝庫に里帰りして、一度はそこに根ざした物語を書いてみたいと願ったのである。
文献を漁り、取材を進め、構想を練るうちに、ふるさとの美しくも恐ろしい相貌は、ますます露になっていった。その極みというべきだったのが、やはり東日本大震災である。
光文社の協力を得て、私は二〇一一年の二月と五月に遠野の現地取材を行っている。その間に震災が起きた。二月の取材時には想像もしなかった事態が発生して呆然となったが、これも何かの巡り合わせと考えて、一月経たないうちに被災地を訪れた。宮城県の亘理町である。そして初夏になり、復旧後間もない東北新幹線に乗って、再び遠野を訪れた。
幸い遠野自体の被害は大きくなかったが、隣り合った釜石まで行ってみると、戦場のような風景の中に異臭が漂っていた。亘理町でも釜石でも、私はむごたらしさに怯えた。しかし、これもまたふるさとなんだと自分に言い聞かせていた。いや、これこそが本当のふるさとなのだと、胸に刻みつけた。
それから一年近くをかけて、ようやく『遠乃物語』を書き上げた。「プツンとちょん切られた空しい余白」でありながら「非常に静かな、しかも透明な」そして、むごたらしくも美しいふるさとを、私なりにではあるが描き通せたことに、今は感謝するばかりである。(「小説宝石」2012年8月号)